大阪地方裁判所 平成2年(ワ)6159号 判決 1992年11月26日
原告
リサーチ・インスティチュート・フォア・メディスン・アンド・ケミストリー・インコーポレイテッド
右代表者
モーリス・エム・ペチェット
右訴訟代理人弁護士
久保田穰
同
増井和夫
被告
株式会社クラレ
右代表者代表取締役
中村尚夫
右訴訟代理人弁護士
品川澄雄
被告
沢井製薬株式会社
右代表者代表取締役
澤井弘行
被告
株式会社ミドリ十字
右代表者代表取締役
須山忠和
右両名訴訟代理人弁護士
井窪保彦
主文
一 被告株式会社クラレは、別紙目録(二)記載の方法を用いて別紙目録(一)記載の物件を製造し、販売してはならない。
二 被告沢井製薬株式会社は、前項記載の方法を用いて製造された前項記載の物件を製剤し、該製剤品を販売してはならない。
三 被告株式会社ミドリ十字は、前項記載の製剤品を販売してはならない。
四 訴訟費用は被告らの連帯負担とする。
五 この判決は、一項については原告が金三〇〇〇万円の担保を、二項については原告が金一五〇〇万円の担保を、三項については原告が金一〇〇〇万円の担保を各供するときは、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求の趣旨
(主位的)
1 被告株式会社クラレは、別紙目的(一)記載の物件を製造し、販売してはならない。
2 被告沢井製薬株式会社は、前項記載の物件を製剤し、該製剤品を販売してはならない。
3 被告株式会社ミドリ十字は、前項記載の製剤品を販売してはならない。
(予備的)
主文同旨
第二事案の概要
一原告の権利(争いがない)
原告は、次の特許権(以下「本件特許権」といい、その発明を「本件発明」という。)を有する。
1 発明の名称 1α―ヒドロキシビタミンD化合物の製造方法
2 出願日 昭和四九年一月九日(特願昭四九―五八五三)
3 優先権主張 一九七三年(昭和四八年)一月一〇日及び同年五月二一日の各アメリカ合衆国(以下「米国」という。)出願に基づく
4 出願公告日 昭和五七年九月二九日(特公昭五七―四五七四〇)
5 登録日 昭和五八年一一月一四日
6 特許番号 第一一七五九〇二号
7 特許請求の範囲(以下「本件特許請求の範囲」という。)
「式
〔式中R5は基
(式中R6およびR7はそれぞれ水素原子を表わすかまたは一緒になって炭素―炭素二重結合を形成しておりそしてR9は水素原子またはメチル基を表わす)を表わす〕
の1α―ヒドロキシ―25―水素―プレビタミンDまたはそのアシレートの熱的異性化により式
(式中R5は前記の意味を表わす)
のビタミンD化合物またはそのアシレートを生成させることを特徴とする、1α―ヒドロキシ―25―水素―ビタミンDまたはそのアシレートの製造方法。」
(別添特許公報―以下「公報」という―参照、なお、上記各式を以下順次「本件発明式Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」という。)
二本件発明の目的物の新規性(<書証番号略>、弁論の全趣旨)
本件特許請求の範囲に目的物質として記載されている「1α―ヒドロキシ―25―水素―ビタミンDまたはそのアシレート」のうち、本件発明式Ⅲ(R5は本件発明式Ⅱである。以下同じ。)のR6、R7及びR9がすべて水素原子である化合物及びその1位の水酸基の水素原子をメトキシカルボニル基で置換した化合物は、昭和四八年一月一〇日(米国出願に基づく優先権主張日)当時、日本国内において公然知られた物ではなかった。
三被告らの行為(争いがない)
1 被告株式会社クラレ(以下「被告クラレ」という。)は、業として、別紙目録(一)記載の物件(以下「被告物件」という。)の原末を製造し、『アルファカルシドール「クラレ」』の商品名でアルファカルシドール医薬品製造原料として販売している。
2 被告沢井製薬株式会社(以下「被告沢井製薬」という。)は、業として、被告クラレから右原末を購入し、これを製剤して、該製剤を「ディーアルファ」の商品名で活性型ビタミンD3製剤として販売している。
3 被告株式会社ミドリ十字(以下「被告ミドリ十字」という。)は、業として、被告沢井製薬の製造にかかる前項記載の製剤品を販売している。
四本件発明の構成要件とイ号方法の構成
1 本件発明の構成要件は、次のとおり分説するのが相当である。
(一) 本件発明式Ⅰ(以下、式中R5は特許請求の範囲の記載に同じ。)の1α―ヒドロキシ―25―水素―プレビタミンDまたはそのアシレートを原料化合物とし、
(二) 右原料化合物の熱的異性化により、
(三) 目的物質たる、本件発明式Ⅲの1α―ヒドロキシ―25―水素―ビタミンDまたはそのアシレートを生成させることを特徴とする、
(四) 右目的物質の製造方法。
2 被告らが主張する被告物件の製造方法(以下「イ号方法」という。)は、別紙目録(二)記載のとおりであり、イ号方法の構成は、次のとおり分説するのが相当である。
(一) 別紙目録(二)記載の式Ⅰに示される化学構造を有する1α―メトキシカルボニルオキシプレビタミンD3を原料化合物とし、
(二) 右原料化合物の熱的異性化により、
(三) 同目録記載の式Ⅱに示される化学構造を有する1α―メトキシカルボニルオキシビタミンD3を生成させ、次にこの1α―メトキシカルボニルオキシビタミンD3を塩基性条件下で加溶媒分解して、同目録記載の式Ⅲに示される化学構造を有する1α―ヒドロキシビタミンD3(被告物件)を生成させる、
(四) 被告物件の製造方法
(上記Ⅰ、Ⅱ、Ⅲの各式を、以下順次「イ号方法式Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」という。)
なお、被告ら主張のイ号方法の具体的態様は、別紙目録(三)に記載の反応過程により、1―(メトキシカルボニルオキシ)コレスター5、7―ジエン―3―オール(以下この項では「原料A」という。)から、次のとおり、光異性化・熱的異性化反応、加溶媒分解反応、さらに精製・乾燥の工程を経て被告物件を製造する方法である(<書証番号略>)。
(一) 光異性化・熱的異性化工程
原料Aをジエチルエーテルとヘキサンの混合溶媒に溶解し、水銀ランプにより紫外線を照射したのち、80℃以下の温度で加熱することにより、1―(メトキシカルボニルオキシ)―9、10、セココレスター―5(10)、6、8―トリエン―3―オール(以下この項では「中間体B」という。)を含む混合物を得る。
(二) 加溶媒分解工程
中間体Bを含む混合物と水酸化リチウムをメタノールと水の混合溶媒に溶解し、加溶媒分解する。ついで生成物をヘキサン―酢酸エチルの混合溶媒を用いた液体クロマトグラフィで分離し、粗の9、10、セココレスター5、7、10(19)―トリエン―1、3―ジオール(粗アルファカルシドール)を得る。
(三) 精製・乾燥工程
五原告の請求の概要
被告物件は、本件発明の目的物質のうち本件発明式ⅢのR6、R7及びR9がすべて水素原子である化合物と同一物であり、特許法一〇四条により本件発明により製造された物と推定されることを理由に、被告クラレに対し被告物件の製造・販売の停止、被告沢井製薬に対しその製剤及び該製剤品の販売の停止、被告ミドリ十字に対し右製剤品の販売の停止を請求。
仮に被告クラレがイ号方法により被告物件を製造しているとしても、同条によりイ号方法は本件発明の技術的範囲に属すると推定されることを理由に、被告クラレに対しイ号方法による被告物件の製造・販売の停止、被告沢井製薬に対しその製剤及び該製剤品の販売の停止、被告ミドリ十字に対し右製剤品の販売の停止を請求。
六争点
1 被告物件は、本件発明の目的物質のうち本件発明式ⅢのR6、R7及びR9がすべて水素原子である化合物と同一物といえるか。
2 被告クラレはイ号方法により被告物件を製造しているか。
3 前項が肯定された場合、イ号方法は本件発明の技術的範囲に属さないといえるか。すなわち、イ号方法の構成(一)の「1α―メトキシカルボニルオキシプレビタミンD3」は本件発明の構成要件(一)にいう「本件発明式Ⅰの1α―ヒドロキシ―25―水素―プレビタミンDのアシレート」に該当するか。
(一) 右アシレートに用いられる保護基の種類
右アシレートに、OH基(ヒドロキシ基)の保護基として炭酸エステル型の保護基であるメトキシカルボニル基を用いたものが含まれるか。
(二) アシル化の部位及び個数
右アシレートに、二個あるOH基(ヒドロキシ基)のうち一個のみアシル化されたモノアシレートが含まれるか。
第三争点に関する当事者の主張
一争点1(被告物件と本件発明の目的物質との同一性)
1 原告の主張
本件発明の目的物質は、本件発明式Ⅲで示される一般式を有する「1α―ヒドロキシ―25―水素―ビタミンDまたはそのアシレート」であり、そのうち、R6、R7及びR9がすべて水素原子である化合物は別紙目録(四)上段の構造式で表記されるのに対して、被告物件は別紙目録(一)記載の構造式を有する化合物であり、両者は、別紙目録(四)の点線で囲んだ各部分において表記を異にしている(以下右各部分を順次「A式」「B式」という。)。しかし、A式の化合物とB式の化合物は、化学的に同一の物質であり、両者は異なる表記方法でこれを表現したにすぎない。すなわち、右各構造式中矢印で指摘した部分の結合は一重結合(単結合)であるから、右一重結合部分を軸としてその両側にある原子団は自由に回転することができる。そして、A式で表わされる二個の水酸基が結合した六員環を含む原子団が、右一重結合部分を軸として一八〇度回転するとB式の形になる。水酸基と六員環との結合線は、水酸基が紙面の裏側に向いているときは結合線を点線で表記し、水酸基が紙面の表側に向いているときはこれを実線で表記する慣例である。したがって、A式において点線で結んでいた水酸基は、B式では裏表が逆転するので実線で結ぶことになる。同様に、A式で実線で結んでいた水酸基はB式では点線で結ぶことになる。右一重結合部分を中心とする回転は常に生じているから、一つの分子が、ある一瞬にはA式の状態をとり、別の一瞬にはB式の状態をとり、また別の一瞬にはA式とB式の中間の状態をとっているというのが実態である。したがって、本件発明の目的物質のうちR6、R7及びR9がすべて水素原子である化合物(アルファカルシドール)をA式やB式のように表現するのは便宜上のことにすぎず、どちらで表現しても同一の化合物を意味しているのである。
この点に関して、被告ら指摘のとおり、本件特許出願の審査段階において原告(代理人)が特許庁審査官に提出した昭和五五年二月九日付意見書には、A式とB式の化合物が化学的に異なる物質を示すかのごとき記載があるけれども、この記載は右の説明からも容易に分るように明らかに誤っており、日本の出願代理人が錯覚して記載したものである。
日本の出願代理人がこのように錯覚して記載するには次のような背景事情があった。すなわち、当時特開昭四八―六二七五〇号公報に記載の発明の発明者であるウィスコンシン大学のグループと原告とは、アルファカルシドールの正しい発明者はどちらかをめぐって激しく争っていた。特許出願が早かったのはウィスコンシン大学のグループ側であったが、原告の見解によれば、右出願明細書に記載されている実験には誤りがあり、右特許出願願書添付明細書には1α―ヒドロキシコレカルシフェロールすなわちアルファカルシドールの名称とそれに相当する化学式は記載されてはいるが、実際に右明細書の記載に従って実験すると別の化合物になるものと考えられた。そこで、原告は、当時この点を世界各国の特許庁で主張しており、前記昭和五五年二月九日付意見書に添付された供述書も、英国特許庁において本件特許に対応する英国出願の審査に際して提出されたものである。
両者の争いは、結局決着がつかないままに終り、両者間に相互に相手方の発明を尊重する趣旨の和解が成立し、日本では両者の出願していたアルファカルシドールの製造方法が異なるところから、それぞれの製法について特許査定がなされている。右の事情からすると、日本の出願代理人は既に故人となりもはや確かめる術もないが、特開昭四八―六二七五〇号公報に記載の先願発明は実はアルファカルシドールの製造に成功していないという前記供述書の主張に影響されて、右先願発明の明細書に記載された化学式も間違っているとの錯覚に陥ったものと考えられる。しかし、特許庁審査官は、前記意見書を見て或いは戸惑ったかもしれないが、A式とB式が化学的に同一の物質を意味することは容易に認識できることであるから、前記供述書を併せ読んだ後には、正しい理解のもとに特許査定の処理をしたはずであるし、本件において右意見書の記載によって本件特許権が制限を受ける理由はない。
被告クラレが製造している被告物件は、本件発明の目的物と同一の物質である。
2 被告らの主張
本件特許出願の審査過程において、特許庁審査官は、昭和五四年九月一一日、ウィスコンシン・アルムニ・リサーチ・ファウンデーション(以下「WARF」という。)の出願にかかる特許発明(以下「別発明」という。)の特開昭四八―六二七五〇号公報を引用して、本願発明は、特許法二九条の二の規定により特許を受けることができない旨の拒絶理由通知を発した。これに対し、原告は、昭和五五年二月九日付意見書を特許庁審査官に提出し、右意見書において、次のとおり述べ、本件特許発明の目的物質と被告物件とは別異の物質である旨明言している。すなわち、「まず、第一点として、本願目的化合物と引例の最終生成物とは構造的に異なっております。すなわち、本願目的化合物は特許請求の範囲所載の式から明らかなとおり、メチレン基に対してオルト位およびパラ位にそれぞれα配位のヒドロキシ基(1α―ヒドロキシ基)およびβ配位のヒドロキシ基を有するのに対し、引例の最終生成物XIV(以下「引例化合物」と称する)はメチレン基に対してオルト位およびパラ位にそれぞれβ配位のヒドロキシ基およびα配位のヒドロキシ基を有しております。従いまして両化合物が化学構造上別異であることは明白であると信じます。第二点として、前記引例化合物は引例公報明細書中には何らその化学的特性について言及されておりませんが、その生物学的性質はビタミンD3自体の性質とほぼ同じであります。これに対し、本願化合物はビタミンD3よりも有意にすぐれており、かつより速効性であって一層迅速に排出され、従って徐々にしか排泄されない通常のビタミンD化合物よりもビタミン毒性を誘発する可能性が一層小さいのであります。」と主張しており、右意見書中、「本願目的化合物」とは、本件発明式Ⅲとして化学構造式の示されている化合物であり、「引例の最終生成物XIV」とは、WARFの出願にかかる特許第一一一三九七一号の特許公報の特許請求の範囲2項に目的物として記載され、同公報の八頁に式XIVとして式示されている化合物であって、被告物件のことである。
他方、原告は、本件特許出願の分割出願である特願昭四九―九九八三七号及び特願昭四九―九九八三六号並びに本件特許出願の分割出願をもとの特許出願とする特願昭六〇―二六七五八一号の各特許出願の審査過程で、本件発明の目的物と被告物件が異なるとの主張をせず、それらの出願は、いずれも特許庁審査官により別発明の前記公報を引用して、特許法三九条一項若しくは同法二九条の二の規定により拒絶査定された。
したがって、本件特許出願は、もしその審査過程で特許庁審査官に対し正しい情報が提供されていれば、他の前記関連分割出願と同様に拒絶査定されていたはずであるにもかかわらず、本件発明の目的物質と被告物件とは別異の物質である旨の前記原告主張があったがために、特許査定され、特許権が設定されたことは明らかである。
二争点2(被告クラレはイ号方法により被告物件を製造しているか)
1 被告らの主張
被告クラレはイ号方法により被告物件を製造している。そして、イ号方法の具体的態様は乙第一号証(医薬品製造承認申請書)に記載のとおりである。イ号方法は、被告クラレが厚生大臣から医薬品の製造承認を受けている製法であり、同被告の研究者等が東京工業大学の高橋孝志助教授の指導の下に昭和六一年から研究開発を進め、その成果に基づいて昭和六三年以降同被告の中央研究所において合成研究を行なった結果開発された製法であり、平成三年一〇月に鳥取大学工学部で開催された日本化学会中国四国支部・同九州支部合同大会において発表されている。
2 原告の主張
特許法一〇四条の推定を覆すためには、被告クラレがイ号方法のみを実施し、それ以外の方法を実施しないことを客観的に証明する必要がある。そのためには、少なくとも、被告クラレが製造した被告物件の全量を明らかにし、その全部につきイ号方法が実施されたことを証明すべきである。それでも、将来別の方法を実施しないことの保証はないが、少なくとも過去の製造分全部についての立証がなくては問題にならない。
本件でこのような立証はされておらず、結局、被告クラレがイ号方法により被告物件を製造している事実は証明されていないというべきである。
三争点3(イ号方法は本件発明の技術的範囲に属さないといえるか)
1 被告らの主張(抗弁)
(一) アシレートの意義
「アシル化」という場合に、保護基としてカルボン酸からOH基を除いた原子団を意味する「アシル基」を用いる場合の外、炭酸エステル型の「メトキシカルボニル基」等の「アルコキシカルボニル基」を用いる場合をも含む広義の用法と、これを含まない狭義の用法があることは原告も認めるところであり、本件特許請求の範囲に記載されている原料化合物としての「そのアシレート」についても、目的物質としての「そのアシレート」についても、格別その点を明確にできるような記載はないから、「そのアシレート」が右広狭いずれの意味で用いられているかについては、特許請求の範囲の記載のみからは明確にすることができない。したがって、これを明らかならしめるためには、本件特許出願願書添付の明細書の発明の詳細な説明を参酌することが必要である。ところが、発明の詳細な説明中の概括的な説明中には、「この変換の間の望ましくない酸化副生物の形成は例えば1・3―ジアセトキシ誘導体に変換させることによって、その1α―および3α―ヒドロキシ基をエステル化することによって最小化することができる。」との記載(公報5頁10欄18〜22行)があるのみで、ここでは「アセテート」すなわち「アセチル基」という「アシル基」の最も典型的な場合が開示されているだけである。また、実施例についてみても、実施例2に関して、「(a)1α・3β―ジアセトキシコレスタ―5・7―ジエンの照射」の項に、「50mgの1α・3β―ジアセトキシコレスタ―5・7―ジエン(…1α・3β―ジヒドロキシコレスタ―5・7―ジエンを無水酢酸と反応させることにより製造した)を…ハノヴイア・ランプで照射した。…粗プレビタミンを包含していた。」との記載(公報11頁21欄42行〜22欄21行)があるが、酢酸から導かれる「アシル基」は「アセチル基」であるから、無水酢酸との反応によって得られる「アシレート」は「アセテート」である。更に、実施例3には、「脱酸素したエーテル(二〇〇ml)中で、一三五mgの1α・3β―ジアセトキシコレスタ―5・7―ジエン(実施例2におけるようにして製造された)を…ハノヴイア・ランプを用いて照射し、…粗プレビタミン…が得られた。このようにして得られた前記プレビタミンを…加熱して異性化した。」との記載(公報12頁24欄3〜16行)があるのみであり、結局、発明の詳細な説明中においては、1α―ヒドロキシ―25―プレビタミンD3のジアセテートが開示されているのみであり、かかる原料化合物を得る方法として、前駆物質たる1α・3β―ジヒドロキシコレスタ―5・7―ジエンを無水酢酸と反応させることが記載されているのみである。以上のとおり、結局、明細書には、「メトキシカルボニル基」を本件発明の原料化合物たる1α―ヒドロキシ―25―水素―プレビタミンDの1位に(しかも1位のみに)導入し得ること、また、それに熱的異性化反応を施すことによって1α―メトキシカルボニルオキシ―ビタミンD3が得られることについて、発明の詳細な説明にも実施例にも何ら開示されておらず、かえって「アセチル基」という原告の言う狭義の「アシル基」の最も典型的な例が示されているにすぎないのである。
被告らが昭和四八年から平成三年までの間に米国で発行されたオフィシャル・ガゼットを調査し、クレームにおいて「アシル基」が炭酸エステル型の「アルコキシカルボニル基」を含まない狭義の意味に用いられているものを選び出したところ、その数は四三四例にも達し、それらの権利者は、著名な化学会社を網羅している(<書証番号略>)。また、被告らが昭和五〇年から平成三年までの間に日本で公開された公開特許公報を調査し「アシル基」が前同様「アルコキシカルボニル基」を含まない意味に用いられているものを選び出したところ、その数は九〇例に達し、それらの出願人は著名企業を多数含んでいる(<書証番号略>)。更に、「アシル基」と「アルコキシカルボニル基」を明確に別概念として区別して記述している文献や論文も多数存在する(<書証番号略>)。以上から明らかなことは、「アシル基」と「アルコキシカルボニル基」を別概念とするのが当業者及び化学者の一般的な認識であり、むしろ前記「アシル化」の狭義の用法こそ通常の用法ということができる。
原告は、本件発明の価値は新規なビタミンD3を発明した点にあるかのごとくに主張するが、右の化合物を最初に発明したのは先願である前記特許第一一一三九七一号(権利者の略称を用いてWARF特許などと呼ばれる)の発明者であるデルーカ(ドルカ)教授らのグループである。したがって、仮に本件特許出願時に物質特許制度があれば、そもそも本件特許が特許査定されることはなかったのであり、原告主張の「そのアシレート」の拡大解釈は到底許されるべきではない。
更に、原告は、右拡大解釈に従って、例えば保護基に「P―トルエンスルホニル基」を用いたものも本件特許請求の範囲にいう「そのアシレート」に含まれる旨主張するようである。しかし、「P―トルエンスルホニル基」を保護基に用いた1α―ヒドロキシプロビタミンD3ジトシレートを本件特許の実施例3と同様の条件下に熱的異性化しても1α―ヒドロキシビタミンD3ジトシレートは生成しない(乙二四実験報告書)。このように原告主張の拡大解釈によれば、工業的に実施不能の例を生じることになることからも、原告主張の誤りが明らかとなる。
以上によれば、本件特許請求の範囲にいう「そのアシレート」は、保護基として、炭酸エステル型の「アルコキシカルボニル基」を用いた場合を含まない、狭義の意味で「アシル化」されたものを意味するものと解釈されなければならない。
(二) アシル化の部位及び個数
本件発明において、アシレートに変換すること(アシル化すること)は活性のヒドロキシ基が目的外の反応を起こすことを防止するためである。そうすると、本件特許請求の範囲に記載された方法では、原料化合物であるプレビタミンDには1位と3位にヒドロキシ基が存するのであるから、これに保護基を使用するのであれば、その双方に保護基を使用する意味に理解するのが通常である。現に発明の詳細な説明中には、前記のとおり「アシレート」の例として「1・3―ジアセトキシ誘導体」(1位と3位のヒドロキシ基の水素原子が共にアセチル基で置換された化合物)が記載されているのみである。
したがって、本件特許請求の範囲にいう「そのアシレート」は、二つのヒドロキシ基(OH基)が共にアシル化されたものを意味するものと解釈されなければならない。
(三) 本件発明との対比
イ号方法は一連の被告物件の製造過程のうち本件発明に対応する部分を抽出して抽象的に記述したものであるが、その具体的製造態様は乙第一号証に記載のとおり(その反応過程は別紙目録(五)記載のとおり)であり、これと本件発明とを対比すれば、両者はその原料化合物のみならず、出発物質から目的物質に至る処理手段、作用効果のいずれの点でも全く異なる。すなわち、
(1) 出発物質からの反応過程
イ号方法の具体的製造過程における出発物質は1α―メトキシカルボニルオキシプロビタミンD3(別紙目録(五)記載Aの化学構造式のもの。以下本項では「A物質」という。)であり、二個のヒドロキシ基中1α位のヒドロキシ基のHのみが、アシル基ではなく、メトキシカルボニル基で置換されている化合物である。これに紫外線照射を施すと、A物質の一部は1α―メトキシカルボニルオキシプレビタミンD3(同目録記載Bの化学構造式のもの。以下本項では「B物質」という。)に変じ、一部はそのまま残存し、結局A物質とB物質の混合物となる。この混合物に熱的異性化を施すと、B物質は1α―メトキシカルボニルオキシビタミンD3(同目録記載Cの化学構造式のもの。以下本項では「C物質」という。)に変じ、A物質はそのまま残存し、結局A物質とC物質の混合物となる。この混合物を加溶媒分解すると、C物質は被告物件(1α―ヒドロキシビタミンD3)に変じ、A物質はそのまま残存し、結局被告物件とA物質の混合物となる。この混合物を濾過し、A物質を結晶として回収し、残存母液から被告物件を単離する。
(2) 原料化合物
本件発明の原料化合物たるアシレートは二つのヒドロキシ基のH原子が共にアシル基で置換されている1α・3β―ジアシルオキシコレスタ―5・7―ジエンであるのに対し、イ号方法では1α位のみがアルコキシカルボニル基に属するメトキシカルボニル基で置換されているB物質である。したがって、イ号方法では、本件特許請求の範囲に記載されている原料化合物としての「そのアシレート」を使用していない。
(3) 処理手段
(イ) 未反応原料回収の効率
イ号方法では、①加溶媒分解後、反応混合物を濾過し、出発物質(A物質)を結晶として回収するため、②母液部分から未反応出発物質(A物質)を簡単なカラムクロマトグラフィ(例えば使用するシリカゲルと展開液が少量)で回収することができるのに対し、本件発明では、①紫外線照射して得られた反応混合物の全量を硝酸銀担持シリカゲルカラムクロマトグラフィまたはHPLC(高速液体クロマトグラフ法)に付し、熱的に不安定な1α・3β―ジアセトキシープレビタミンD3を分離し、未反応原料を回収するため、②回収した未反応原料の画分にはタキステロール等の異性体が混入しており、未反応原料の再使用が困難である。
(ロ) 目的物質の単離の容易性
イ号方法では、上記のように濾過及び簡単なカラムクロマトグラフィで未反応出発物質(A物質)を回収後、目的物質たる1α―ヒドロキシビタミンD3をHPLCで容易に単離できるのに対し、本件発明では、目的物質たる1α―ヒドロキシビタミンD3の単離が容易でない。
(4) 作用効果
イ号方法の具体的態様においては、本件発明にはない次のような顕著な作用効果がある。
(イ) 1α―メトキシカルボニルオキシプロビタミンD3(A物質)と1α―メトキシカルボニルオキシビタミンD3(C物質)の加溶媒分解の速度差を利用して、未反応の1α―メトキシカルボニルオキシプロビタミンD3(A物質)を殆ど加溶媒分解せずに、1α―メトキシカルボニルオキシビタミンD3(C物質)を選択的に加溶媒分解して1α―ヒドロキシビタミンD3(被告物件)に誘導できる。
(ロ) 1α―メトキシカルボニルオキシプロビタミンD3(A物質)は加溶媒分解に使用する溶媒に対する溶解性が低く、しかも結晶性が良いのに対し、1α―ヒドロキシビタミンD3(被告物件)は当該溶媒に対する溶解性が高いという現象及び性質を利用して、濾過という簡単な操作で1α―ヒドロキシビタミンD3(被告物件)を含む溶液(母液)と未反応の1α―メトキシカルボニルオキシプロビタミンD3(A物質)の結晶とを極めて容易に分離できる。
(ハ) 1α―ヒドロキシビタミンD3(被告物件)と1α―メトキシカルボニルオキシプロビタミンD3(A物質)とは固定相への吸着性が大きく異なるため、上記の母液を簡単なカラムクロマトグラフィ(例えば、使用するシリカゲルと展開液が少量)に付することにより、母液に溶解している1α―ヒドロキシビタミンD3(被告物件)と1α―メトキシカルボニルオキシプロビタミンD3(A物質)とを容易に分離することができる。
(二) 回収した1α―メトキシカルボニルオキシプロビタミンD3(A物質)は、なんら化学的操作を加える必要なくして、原料として再使用できる。
(ホ) これらが目的物質の最終的な収率向上に寄与することはいうまでもない。
以上の対比から明らかなように、イ号方法で保護基としてアルコキシカルボニル基に属する「メトキシカルボニル基」を用い、かつそれにより原料化合物の1位のOH基のみを保護していることには、明確な技術的根拠が存在するのであり、もとより特許回避の意図によるものではない。
このように、イ号方法は、本件発明には見られない特徴と工業的利点を有するのであって、これらの点は本件特許出願時に当業者に認識されていたものではなく、またこれを本件特許出願人が認識していたことを示唆する記載は本件明細書中には全く存在しない。
したがって、イ号方法は本件発明の技術的範囲には属さない。
2 原告の主張
(一) アシレートに用いられる保護基の種類
発明の詳細な説明には、アシレートの例としてベンゾエートあるいはベンゾイルオキシ誘導体(参考例1、但し前駆体の製法に関する。)及び1・3―ジアセトキシ誘導体(実施例2、3)がそれぞれ開示されている。しかし、これらのRCO型のアシル基によるRCOO型のアシレートは、単に例示として記載されているにすぎない。右化学式の「R」が「RO―」型であるROCO型のアシル基(この場合のアシル基をアルコキシカルボニル基という。その最も簡単な構造のものがイ号方法に使用されているメトキシカルボニル基である。)によるROCOO型のアシレートや、Rが水素原子だけのアシル基によるアシレートもよく使用される。アシレートを使用するのは、ヒドロキシ基のままの反応よりも、ヒドロキシ基をエステル化しておく方が副反応が抑制されるためであって(公報5頁10欄18〜22行)、ヒドロキシ基のままでも、本件特許請求の範囲に記載されているとおりの目的物質は得られるのである(実施例1)。本件発明の目的が1α―ヒドロキシビタミンD3などの新規かつ極めて有用な化合物を提供することにあることは言うまでもなく、したがって、アシレートの種類によって本件発明の本質が変ることはないのであるから、有機化学においてアシレートと認識されているものならば、すべて本件特許請求の範囲にいう「そのアシレート」に包含されることは当然である。
日本に出願された特許出願願書添付の明細書でも「アシル基」に「アルコキシカルボニル基」を含める用語例が多数存在し(<書証番号略>)、これらは日本の大手企業の出願であり、その用語の使用法は当業者の標準的なものと認めてよいはずである。また、学術文献上も「アシル基」に「アルコキシカルボニル基」を含める用語例が多数存在する(<書証番号略>)。
したがって、当業者及び化学者にとって「アシル基」という語を「アルコキシカルボニル基」を含めた広い意味で用いることはなんら特別なことではなく、現に本件明細書に「アシル基」の範囲を限定する特段の記載も存在しない以上、本件発明の反応の性質上「アルコキシカルボニル基」を使用し得ないと考える根拠のない限り、本件特許請求の範囲にいう「そのアシレート」から「アルコキシカルボニル基を保護基に用いたアシレート」を除外する理由はない。
しかも、本件発明は、前記のとおり、新規なビタミンD3の製造方法を対象とするものであり、ヒドロキシ基の保護は行なっても行なわなくてもよいことが特許請求の範囲に明記されているのであって、本件発明の価値は新たなビタミンD3化合物を提供したことにあり、ヒドロキシ基の保護法を提供したものでないことは自明である。したがって、ヒドロキシ基の保護手段に関しては、用語の意味を通常の用法の最も広い範囲の意味に理解し、本件特許請求の範囲にいう「そのアシレート」に「アルコキシカルボニル基を保護基に用いたアシレート」も含まれると解釈されるべきである。
(二) アシル化の部位及び個数
本件特許請求の範囲にいう「そのアシレート」とは、本件発明式ⅠのプレビタミンD又は本件発明式ⅢのビタミンDのヒドロキシ基がアシル化されている化合物である。同プレビタミンDにもビタミンDにもヒドロキシ基は二つあるから、二個のヒドロキシ基がいずれもアシル化された場合と、1αまたは3βのヒドロキシ基のいずれか一つだけがアシル化された場合の合計三つの場合があり、そのいずれの場合も「そのアシレート」に該当することになる。
(三) イ号方法と本件発明との対比
本件発明式ⅡのR6、R7及びR9がすべて水素原子である場合に、本件発明式Ⅲの目的物質は被告物件に該当する9、10―セココレスタ―5、7、10(19)―トリエン―1α、3β―ジオール(アルファカルシドール)を意味し、本件発明式Ⅰの原料化合物はそのプレビタミンを意味する。そして、アシル基(RCO―)のRとしてメトキシ基を選択したうえで、右原料化合物の1αの位置のヒドロキシ基のみをアシル化した場合、本件発明式Ⅰの原料化合物は1α―メトキシカルボニルオキシプレビタミンD3となり、同式Ⅲの目的物質は1α―メトキシカルボニルオキシビタミンD3となる。したがって、イ号方法の原料化合物1α―メトキシカルボニルオキシプレビタミンD3(B物質)と中間体の1α―メトキシカルボニルオキシビタミンD3(C物質)は、それぞれ本件発明の原料化合物及び目的物質に該当する。
本件特許請求の範囲にいう「熱的異性化」とは原料化合物を加熱してその異性体(構成原子の種類も数も同じで、構造に若干の相違があるもの。本件では単結合と二重結合の場所が異なっている。)にすることである。イ号方法でも、本件特許請求の範囲に記載されているとおり、1α―ヒドロキシプレビタミンD3のアシレートの構造を熱的異性化によって1α―ヒドロキシビタミンD3のアシレートに変えており、この点で両者間に差異はない。ヒドロキシ基の一つだけを「メトキシカルボニル基」で保護したことによって熱的異性化反応に格別差異はない。
イ号方法の利点として被告らが強調する点は、本件発明の原料化合物である1α―ヒドロキシプレビタミンD3体の原料として使用されるプロビタミンD3誘導体に関し、ヒドロキシ基の一つをメトキシカルボニル基で保護したものは、未反応部分を回収して再使用するのに便利な性質を有しているとの点に尽きる。つまり、本件発明の原料化合物たる1α―ヒドロキシプレビタミンD3のアシレートを得る工程について改良効果があるというにすぎない。
しかし、本件発明は、1α―ヒドロキシプレビタミンD3のアシレートの製造方法を対象とする発明ではないから、如何なる原料より、如何なる手段によって製造された1α―ヒドロキシプレビタミンD3又はそのアシレートを使用する場合にも、これを熱的異性化して1α―ヒドロキシビタミンD3又はそのアシレートを製造する限り、本件特許権の侵害となる。
被告らは、本件発明の実施例とイ号方法を比較しているが、実施例はあくまで本件発明に含まれる製造方法の一例に過ぎないから、それとの比較をしたところで、イ号方法が本件発明の技術的範囲に属するか否かの判断とは関係のないことである。本件発明は、1α―ヒドロキシビタミンD3の合成に関する基本発明に係わるものであり、仮にイ号方法になんらかの工業上の利点があるとしても、本件特許権の侵害となることを免れることはできない。未反応原料の回収や再使用を計ることなどは当業者にとって常識というべきである。
以上のとおり、イ号方法が本件発明の技術的範囲に属することは明らかである。
第四争点に対する判断
一争点1(被告物件と本件発明の目的物質との同一性)
1 結論
本件発明の目的物質は、本件発明式Ⅲで示される「1α―ヒドロキシ―25―水素―ビタミンDまたはそのアシレート」であり、本件発明式Ⅱ中R6及びR7はそれぞれ水素原子を表わすかまたは一緒になって炭素―炭素二重結合を形成しておりそしてR9は水素原子またはメチル基を表わしている(<書証番号略>)。他方、被告物件は、別紙目録(一)記載の式(イ号方法式Ⅲ)で示される化合物である。そして本件発明式Ⅱにおいて、R6、R7及びR9がいずれも水素原子である化合物と被告物件とは、別紙目録(四)の点線で囲んだ「A式」と「B式」の各部分にいてその表記を異にするけれども、原告主張(第三、一1)のとおり、A式表記の化合物とB式表記の化合物とは、化学的に同一の物質であり、両者は単にこれを異なる表記方法で表記したにすぎないものと認められる(<書証番号略>)から、被告物件が本件発明の目的物質に当たることは明らかである。
2 被告らの主張について
この点に関して、被告らは、本件特許出願の審査過程で、特許庁審査官が、昭和五四年九月一一日、WARF出願の別発明の公開特許公報を引用して、本件発明は特許法二九条の二の規定により特許を受けることができない旨の拒絶理由通知を発したのに対し、原告(代理人)は、昭和五五年二月九日付意見書を特許庁審査官に提出し、右意見書の中で前記A式の化合物とB式の化合物が化学構造上別異の物質である旨述べたが、もしこのような誤った意見書が提出されず、その審査過程で特許庁審査官に対し正しい情報が提供されていれば、本件特許出願は拒絶査定されていたはずである旨主張し、原告も、①特許庁審査官の右拒絶理由通知に対し被告ら主張の意見書を提出したこと、②その中に被告ら指摘の記載のあること、③右意見書記載部分は誤った主張であることをいずれも認めている。そして、この点についての原告の釈明を参酌してもなお、右出願から特許査定に至る経過に関して十分納得できる説明がなされているものとはいい難く、WARF側との和解内容等も含め不可解なものを残すことは否めない。
しかしながら、出願人が特許庁審査官の拒絶理由通知に対する意見書において一定の陳述をなし、それが特許庁審査官に受入れられた結果拒絶理由が解消し、特許が査定された場合に、その特許権に基づく侵害訴訟において、特許権者又は専用実施権者などが、右の陳述と矛盾する主張をして侵害を主張することが、信義誠実の原則ないしは禁反言の原則に照らし許されない例外的な場合が生じる可能性があることは否定できないけれども、本件全証拠によっても、右意見書の誤った主張部分が特許庁審査官に受入れられた結果特許査定に至ったものとまでは断定し難いので、本件が右例外的な場合に該当するものと認めることはできない。
二争点2(被告クラレが現実にイ号方法を実施しているといえるか)
1 結論
証拠(<書証番号略>、証人塩野万蔵)によれば、イ号方法は、被告クラレが厚生大臣から医薬品の製造承認を受けている被告物件の製法であり、同被告の研究者等が東京工業大学の高橋孝志助教授の指導の下に昭和六一年から研究開発を進め、その成果に基づいて昭和六三年以降同被告の中央研究所において合成研究を行なった結果開発された製法であること、及び被告クラレが製造販売している被告物件はイ号方法によって製造されたものであること、イ号方法の具体的態様は被告ら主張(第三、三1(三))のとおりであることが認められる。
2 原告の主張について
原告は、被告クラレがイ号方法により被告物件を製造していることを争い、特許法一〇四条の推定を覆すためには、同被告がイ号方法のみを実施し、それ以外の方法は実施していないことを客観的に証明する必要があり、そのためには、少なくとも、同被告がこれまでに製造した被告物件の全量を明らかにし、かつ、その全部がイ号方法により製造されたことを証明すべきである旨主張する。
しかしながら、本訴において、原告は、本件特許権侵害を理由に、被告クラレに対し被告物件の製造販売の停止を求めているのみであって、過去からの損害賠償請求をしているのではないから、特許法一〇四条の推定規定との関係においては、同被告は現在被告物件をイ号方法のみにより製造しており、将来もそれが継続されることを立証すれば足りると解するのが相当であり、本件ではその立証は尽くされているものと認められる。本来物の生産方法は、経時的要素を含む一つ以上の行為又は現象から成り立つのが普通であって、そこには企業秘密として管理されている幾多のノウハウが積み重ねられているのを常とする。したがって、原告主張のごとき厳格な証明まで要求することは、被告側のこのような営業の自由と企業秘密秘匿の自由とを、特許法一〇四条の規定により全面的に反故にすることになりかねず、かえって当事者間の衡平を失する結果を招来するから、原告のこの点に関する主張は到底採用できない。
三争点3(イ号方法は本件特許発明の技術的範囲に属さないといえるか)
1 本件発明の構成要件(一)の「そのアシレート」
(事実関係)
本件発明は、特許請求の範囲に記載の原料化合物たる「本件発明式Ⅰの1α―ヒドロキシ―25―水素―プレビタミンDまたはそのアシレート」を熱的異性化することにより「本件発明式Ⅲの1α―ヒドロキシ―25―水素―ビタミンDまたはそのアシレート」を得る方法であり、証拠(<書証番号略>)及び弁論の全趣旨によると、次の事実が認められる。
(一) 本件特許請求の範囲の記載及び発明の詳細な説明中には、本件特許請求の範囲にいう「そのアシレート」についての定義はなく、「そのアシレート」の技術的意義は特許請求の範囲の記載から一義的に明確に理解することはできない。そして、発明の詳細な説明にも、「そのアシレート」の意義に関する記載としては、「この式Ⅳの化合物はまた…熱的に異性化することによって本発明が目的とするビタミン誘導体に変換することができる。…この変換の間の望ましくない酸化副生物の形成は例えば1・3―ジアセトキシ誘導体に変換させることによって、その1α―および3α(裁判所注記・3βの誤記と認められる)―ヒドロキシ基をエステル化することによって最小化することができる」との記載(公報5頁10欄2〜22行)があるだけであり、ここでは「アセチル基」という「アシル基」の最も典型的な場合(化学大辞典〔共立出版株式会社発行〕の表にも明記されている。)が開示されている。
また、実施例としては(実施例1は保護基を使用しない例)、実施例2に関して、「(a)1α・3β―ジアセトキシコレスタ―5・7―ジエンの照射」の項に、「50mgの1α・3β―ジアセトキシコレスタ―5・7―ジエン(…1α・3β―ジヒドロキシコレスタ―5・7―ジエンを無水酢酸と反応させることにより製造した)を…ハノヴイア・ランプで照射した。…粗プレビタミンを包含していた。」との記載(公報11頁21欄42行〜22欄21行)が、実施例3に関して、「1α―ヒドロキシビタミンD3の製造」の項に、「脱酸素したエーテル(二〇〇ml)中で、一三五mgの1α・3β―ジアセトキシコレスタ―5・7―ジエン(実施例2におけるようにして製造された)を…ハノヴイア・ランプを用いて照射し、…粗プレビタミン…が得られた。このようにして得られた前記プレビタミンを…加熱して異性化した。」との記載(公報12頁24欄3〜16行)があるのみである。これら実施例の前駆物質たる1α・3β―ジアセトキシコレスタ―5・7―ジエンを光照射することによって生成するプレビタミンは「1α・3β―ジアセトキシプレビタミンD3」であり、さらにこの物質を熱的異性化することによって生成するビタミンは「1α・3β―ジアセトキシビタミンD3」であって、いずれの例においても、「アシレート」として「アセチル基」を導入したアセテートが開示されている。
(二) 本件特許請求の範囲にいう「アシレート」とは、アシル化反応によって生成したエステル化合物をいうことは明らかであるが、一般概説的には、別紙「化学大辞典」(共立出版株式会社発行)記載のとおり、「アシル化」とは、化学反応上活性で副反応を生じやすい化合物中のNH2基(アミノ基)やOH基(ヒドロキシ基)を保護し右副反応を抑制する目的で、これらの基のH原子をアシル基(RCO―)で置換することをいい、そして、「アシル基」とは、メトキシカルボニル基(CH3OCO―)やエトキシカルボニル基(C2H5OCO―)などのアルコキシカルボニル基を含まない、カルボン酸からOH基を除いた原子団を指す用語(狭義の用法)として使用されている。
しかし、これらエトキシカルボニル基などのアルコキシカルボニル基型の保護基で置換する反応も「アシル化」という用語によって表現する(広義の用法)場合もあることは被告も認めるところであり、別紙「化学大辞典」(共立出版株式会社発行)にも、「通常用いられるアシル基としてアセチル、ベンゾイル、P―トルエンスルホニル基などがある。」と記載されているように、RCO―型の狭義のアシル基ではなくても(P―トルエンスルホニル基はRSO2―なる構造であり、RCO―型の狭義のアシル基とは構造上明確に異なる。)、アミノ基・水酸基の保護基として使用される保護基を「アシル基」といい、これらを保護基として使用する反応を「アシル化」という、広義の用法も一般に使用されている。
そして、アルコキシカルボニル基型の保護基で置換する反応も「アシル化」と明記している、本件優先権主張日当時既に発行済みの、有機化学の分野(本件発明もこれに属する)の教科書や論文も少なくない。
(三) 特許申請の実務においてもほぼ右と同様の状態にあり、特許出願願書添付明細書において、狭義のアシル基とアルコキシカルボニル基を明確に区分して記載しているものが多いけれども、日本の大手企業の出願にかかる特許出願願書添付明細書において、「アシル化」する場合の「アシル基」にアルコキシカルボニル基に属するものが含まれる旨明記するものや、アルコキシカルボニル基に属する保護基で置換することを「アシル化」と明記しているものがある。
(四) これら教科書・論文及び特許出願願書添付明細書の記載に鑑みると、広義のアシル化において、保護基として使用されるとき、狭義のアシル基とアルコキシカルボニル基とは互いに代替性がある場合が多いことが当然容易に推知できる。
(判断)
右認定の事実関係を総合して考えると、本件発明の構成要件(一)にいう「そのアシレート」は、保護基として、右狭義のアシル基の他、本件特許出願願書添付の明細書を閲読したビタミンD3製造の技術の分野における通常の知識を有する化学者が、当然、実施例として開示されているアセチル基と代替可能と推知できる範囲内にあると認められる、アルコキシカルボニル基に属するメトキシカルボニル基(CH3OCO―)を用いたアシレートを含むものと解するのが相当である。
2 被告らの主張について
被告らは、本件特許請求の範囲の原料化合物に関する記載として、「1α―ヒドロキシ―25―水素―プレビタミンDまたはそのアシレート」という包括的記載があるのみであり、明細書中には実施例として狭義のアシル基に属するアセチル基を置換基として用いたもののみが開示されているにすぎないこと、並びに狭義のアシル基とアルコキシカルボニル基が別概念とするのが当業者及び化学者の一般的な認識であり、アシル化の狭義の用法こそが通常の用語法であることを根拠に、本件特許請求の範囲にいう「そのアシレート」は狭義のアシル基を保護基として用いたものに限られる旨主張する。
しかし、かような包括的記載を含むクレームの解釈に当っては、まず、明細書中にその技術的意味を明らかにし得る概念的な説明があるかどうか、また技術常識によってその意味を確定できるかどうかを検討し、なお不十分である場合は、明細書に記載された実施例を参酌し、そこに具現された具体的な技術思想を把握することによってその意味を確定すべきであり、クレームの文言の広さにとらわれて、明細書中にいわゆる当業者が容易に実施可能な程度に開示されていない技術まで包含させるような解釈をしてはならないが、問題は右の如き包括的記載がなされているかどうかにではなく、そのことが明細書において開示されているかどうかにかかっているといわなければならない。そして、特許の対象である技術的思想は、願書添付明細書に記載され、それが特許公報に記載されることによって一般に公開されるものであるから、本件発明における原料物質としてアルコキシカルボニル基を保護基として用いたアシレートを使用し得るとの思想が開示されているといい得るためには、原則として明細書にそれを明示する趣旨の記載が存在することが必要であるが、特許発明は、出願当時の技術水準を背景にして生み出された技術的思想の創作であり、特許請求の範囲の記載によってその技術的範囲を画するとともに、明細書の発明の詳細な説明には、その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者、すなわち当業者が容易にその実施をすることができる程度に、その発明の目的、構成及び効果が記載されるべきものである(特許法三六条三項)から、特許発明の技術的範囲を確定するに当たっては、出願当時の当業者にとって技術的に自明な事項、すなわち当業者であれば当然有する技術常識や当業者にとって周知慣用の技術を判断資料とすることができると解される。したがって、特許出願日(優先権主張日)当時における当該技術分野の通常の専門家が、右明細書を閲読することによりその発明が「そのアシレート」としてアルコキシカルボニル基を保護基として用いたものをも対象とするものであることを容易に推知することができたものと認められるようなときには、なお前記の如き思想が開示されているものとみることができるというべきである。
これを本件についてみると、発明の詳細な説明には、「そのアシレート」の例として1・3―ジアセトキシ誘導体(公報5頁10欄19行等、実施例2、3)が開示されているにすぎず、これはRCO型のアシル基によるRCOO型のアシレートに属するものであるが、右記載が単に例示として記載されているにすぎないものであることはいうまでもない。そして、「アシル化」ないし「アシル基」という表現を使用するか否かは別として、右化学式の「R」が「RO―」型であるROCO型の原子団(これをアルコキシカルボニル基といい、その最も簡単な構造のものがイ号方法に使用されているメトキシカルボニル基である。)を、狭義のアシル基と全く同様に、OH基の保護基に用いる場合が多いこと、この両者は相互に代替的である場合が多いこと、アルコキシカルボニル基を保護基に用いるときも「アシル化」といい、アルコキシカルボニル基を「アシル基」に含める広義の用語法も一般に通用していることは、前記のとおりである。
そして、明細書において、本件発明の方法においては、原料化合物はヒドロキシ基のままでも、本件特許請求の範囲に記載されているとおりの目的物質が得られることは、実施例1に明記されている。その知見を基礎にして、本件発明において、これを一旦アシレートに変換し(アシル化し)たものを使用するのは、ヒドロキシ基のままの反応よりも、ヒドロキシ基をエステル化することによって、熱的異性化に際して生じる望ましくない副反応を最小化するためであることが明細書に明記されている(公報5頁10欄18〜22行)。これら明細書の記載に照せば、本件発明において、プレビタミンD構造体を一旦アシレートに変換し(アシル化し)たものを使用するのは、狭義のアシル基を用いるものに限らず、プレビタミンD構造体のヒドロキシ基を保護基によって保護するという広義のアシル化をしたアシレートを使用することを意味していることは、当業者であれば直ちに理解できるところというべきである。
したがって、明細書中に実施例として明確に記載されていない保護基であっても、有機化学の分野において、広義のアシル化において、保護基として通常狭義のアシル基と代替可能と認められているものを用いたアシレートは、本件特許出願願書添付明細書によって開示されていると認められるべきである。そして、イ号方法において使用されている、アルコキシカルボニル基に属するメトキシカルボニル基(CH3OCO―)を保護基に用いたアシレートも、有機化学の分野において、広義のアシル化において、保護基として通常狭義のアシル基と代替可能と認められているものを用いたアシレートに該当すると認められる。
本件発明の最終的な目的は1α―ヒドロキシビタミンD3などの新規かつ有用な化合物を提供することにある。アシレートの種類によって本件発明の本質が変ることはないのであり、本件発明の目的物質とされているビタミンDのアシレートも、最終的には保護基を外してヒドロキシ基に戻すことが当然の前提とされているのである。
以上のとおりであるから、被告らの主張は採用できない。
なお、被告らは、発明の詳細な説明中の実施例3と同様の条件で、前記化学大辞典で通常アシル化に用いられる「アシル基」の例として記載されているが、狭義の「アシル基」に属しない、「P―トルエンスルホニル基」を保護基に使用した、そのアシレートに光異性化及び熱的異性化を試みても、本件発明の目的物質のビタミンD3化合物は生成されなかったこと(<書証番号略>)をもって、被告ら主張の正当性を根拠付ける理由の一つとするようであるが、このような例外的事例があるからといって、当裁判所の前記判断を変更することはできない。なお、P―トルエンスルホニル基はアルコキシカルボニル基とは構造を異にする別異の原子団である。
3 アシル化の部位及び個数
本件特許請求の範囲にいう「そのアシレート」とは、本件発明式ⅠのプレビタミンD又は本件発明式ⅢのビタミンDのヒドロキシ基がアシル化されている化合物である。同プレビタミンDにもビタミンDにもヒドロキシ基は二つあるから、二個のヒドロキシ基がいずれもアシル化された場合と、1α又は三βのヒドロキシ基のいずれか一つだけがアシル化された場合の合計三つの場合があり、いずれの場合も「そのアシレート」に該当することになるというべきである。
被告らは、本件発明において、アシレートに変換すること(アシル化すること)は活性のヒドロキシ基が目的外の反応を起こすことを防止するためであり、原料化合物であるプレビタミンDには1位と3位にヒドロキシ基があるから、これに保護基を使用するのであれば、その双方に保護基を使用する意味に理解するのが通常であり、現に発明の詳細な説明中には、「アシレート」の例として「1・3―ジアセトキシ誘導体」(1位と3位のヒドロキシ基の水素原子が共にアセチル基で置換された化合物)が記載されているのみであるから、本件特許請求の範囲にいう「そのアシレート」は、二つのヒドロキシ基(OH基)が共にアシル化されたものを意味するものと解釈されなければならない旨主張するが、前記本件発明におけるアシル化の目的及びアシル化をしないヒドロキシ基がそのままのプレビタミンDを原料化合物とする場合も本件発明に含まれていること、更に、複数のヒドロキシ基やアミノ基がある場合に保護基を使用する際にはそのすべてに使用することが当業者の技術常識であると認めるに足りる証拠もないことに照し、右被告ら主張は採用できない。
4 イ号方法と本件発明との対比
本件発明式ⅡのR6、R7及びR9がすべて水素原子である場合に、本件発明式Ⅲの目的物質は被告物件に該当する9、10―セココレスタ―5、7、10(19)―トリエン―1α、3β―ジオール(アルファカルシドール)を意味し、本件発明式Ⅰの原料化合物はそのプレビタミンを意味する。そして、アシル化に用いる保護基としてメトキシカルボニル基を選択したうえで、右原料化合物の1αの位置のヒドロキシ基のみをアシル化した場合、本件発明式Ⅰの原料化合物は1α―メトキシカルボニルオキシプレビタミンD3となり、同式Ⅲの目的物質は1α―メトキシカルボニルオキシビタミンD3となる。したがって、イ号方法の原料化合物1α―メトキシカルボニルオキシプレビタミンD3(B物質)と中間体の1α―メトキシカルボニルオキシビタミンD3(C物質)は、それぞれ本件発明の原料化合物及び目的物質に該当することになる。
本件特許請求の範囲にいう「熱的異性化」とは原料化合物を加熱してその異性体にすることである。イ号方法でも、1α―ヒドロキシプレビタミンD3のアシレートの構造を熱的異性化によって1α―ヒドロキシビタミンD3のアシレートに変えており、この点で両者間に差異はない。ヒドロキシ基の一つだけを「メトキシカルボニル基」で保護したことによって熱的異性化反応に格別質的差異があるとは認められない。
イ号方法の利点として被告らが強調する点は、本件発明の原料化合物である1α―ヒドロキシプレビタミンD3体の原料として使用されるプロビタミンD3誘導体に関し、ヒドロキシ基の一つをメトキシカルボニル基で保護したものは、未反応部分を回収して再使用するのに便利な性質を有しているから、最終的な収率向上が得られるとの点に尽きる。しかし、1α―ヒドロキシプレビタミンD3のアシレートを熱的異性化して1α―ヒドロキシビタミンD3のアシレートを製造する限り、本件特許権の侵害となる。被告らは、明細書記載の本件発明の実施例とイ号方法を比較しているが、実施例はあくまで本件発明に含まれる製造方法の一例であり、しかも新規物質創作当時のものであるから、それとの比較をしたところで、イ号方法が本件発明の技術的範囲に属するか否かの判断とは関係のないことである。本件発明は、新規な1α―ヒドロキシビタミンD3の合成に関するものであり、仮にイ号方法になんらかの工業上の利点があるとしても、イ号方法が本件発明の構成要件をすべて充足する以上、本件特許権の侵害となることを免れることはできない。
以上のとおりであるから、イ号方法が本件発明の技術的範囲に属さないということはできない。
(裁判長裁判官庵前重和 裁判官小澤一郎 裁判官辻川靖夫)
別紙特許公報<省略>